若手研究者へ

女性の研究職への進出

水野 紀子 大学院法学研究科・法学部 総合法制専攻 (法科大学院)教授

1978年東京大学法学部卒業。1978年東京大学法学部助手。1983年名古屋大学法学部助教授。1991年名古屋大学法学部教授。1998年東北大学法学部教授。2000年から東北大学大学院法学研究科教授。著作は、『日本民法施行100年記念 民法学説百年史』(三省堂、1999年)、『家族法判例百選(第6版)』(有斐閣、2002年)、『家族―ジェンダーと自由と法』(東北大学出版会、2006年) など。


法学の道へ

ドナイ(機構):今日はお忙しいところインタビューに応じていただきありがとうございます。さっそくですが、現在の専門を選ばれたきっかけをおうかがいいたします。

水野紀子教授:私は高校生のときに、とにかく一生職業を持とう、働き続けたいと思っておりました。しかし当時はまだ男女雇用機会均等法ができるずっと前で、企業に勤めても結婚すれば退職するルートが見えていましたから、とにかく食べていける資格をとらなくてはいけないと思いました。それには、医者か弁護士だろうと思ったのです。最初は医学部に行くつもりでしたけれど、数学は割合得意でしたが物理がまったく理解できず、物理に医学部への道を阻まれたと思いまして、法学部にしました。司法試験を受けるつもりでした。


女子学生の割合

私は学生時代を東京大学法学部で過ごしました。当時、男女平等の憲法が施行されてすでに30年ほど経過しておりましたが、東大法学部の男女比率は大体50対1でした。今の学生たちは私の子どもたちより年下の世代ですが、今でも半々にはとても及ばず、3割にも届いていないのではないでしょうか。もっとも私のときにはなにしろ2%でしたから、それよりははるかにいいのですが。

学者になる決意

ドナイ(機構):法学はとても難しい分野ですよね。

水野紀子教授:たしかにとっつきの悪い学問でしょう。私も法律学に最初から魅力を感じていたわけではなく、将来の飯の種というつもりで勉強し始めました。ところが勉強してみると、非常に面白い学問だったのです。こんなに面白いことを、もし一生の仕事に出来るのなら、さぞ楽しいだろうと思いました。東大法学部には一定以上の成績の学生は大学院をスキップして学卒助手になる、つまり学部を卒業していきなり助手に採用され、3年間で助手論文を書いて学者になるという、学者の速成栽培コースがありました。私は大学3年生のときにその成績基準を満たしていることが分かり、この面白い学問をずっと続けることを仕事にできればいいなと思いはじめました。


“女性は...”

当時すでに戦後30年以上経っていたとはいえ、まだ女性の法学研究者はごく少なく、育てても就職させられないから女性の弟子をとらないと公言する教授もおられたし、弟子にする条件として一生結婚しないことを指導教授に約束させられた同業者の友人もいました。そもそも女性の弟子をとるのを嫌がる先生が多かったのです。

 私の指導教授はそんなことをいう方ではなかったのですが、助手時代に指導して下さった、同じ民法のある先生は、「女性は」という主語を用いる言い方をされました。「男性の助手は助手論文を書くが、女性は書かない」と。実際には、書かなかったのはかつてたった一人の女性助手がいただけで、男性助手でも書かなかった人が沢山いたのですが。また、「女性には法律学の一流学者はいませんね」とも言われました。とくに私に意地悪しようとされたわけではなく、ごく自然にそう話されるのですね。私の論文の抜き刷りを先輩の同じ専門の学者にお送りしたら、そのお礼状に、ご好意からなのですが、「女性なのに出色だと思いました」とあったりしました(笑)。

 そういう時代でしたので、私がやることはみんな「女性は」という主語で語られてしまうという恐怖が長い間ありました。私が出来ないこと、私の能力の限界が、女性が出来ないことになってしまうという恐怖です。男性なら許される学内行政等のサボりでも、女性はサボる、と言われると思うと、最低限の産休をとっただけでがんばってしまいました。私の欠点や限界が女性のそれになってしまい、後輩の女性みんなに迷惑をかけることになってしまうことが、本当に長い間、肩にかかる重い荷物でした。

 でも人間万事塞翁が馬といいますか、そのお陰で、今では、後輩女性学者の活躍が自分のことのように嬉しいと思えます。私がだめでも、あの優秀な彼女をみて!といえばいいわけですから。私の同僚にも、すばらしく優秀な女性准教授たちがいます。その点ではものすごく楽になりましたし、嬉しいですね。

恩師

このような時代でしたが、私の指導教授だった加藤一郎先生※は、時代の限界を越えた、芯から民主的な方でした。素晴らしい先生に巡り合えたと思っております。私の中では、神様、仏様、加藤先生くらいの位置におられます(笑)。もちろん加藤先生も人間ですからそんなに完全無欠でいらしたはずはないのですけれど、少なくとも私の前では完全無欠でいらして、死ぬまで私のその幻想を崩さないでくださったことには本当に心から感謝しています。

ドナイ(機構):恩師について水野先生は「末弟子からみた加藤一郎先生」というエッセイを書かれていますので引用させていただきます。

 学部生の私が加藤先生と研究室に残る相談をした日のことは、まだ鮮明に覚えている。(中略)先生がそのときに言われたのは、まったく対照的なことであった。「法律の論文は、技術的なもののように思うかもしれませんが、債権譲渡のような技術的なことを書いているようでも、どうしてもそれを書いた人間が出てしまいます。優しい人の書いたものは優しい論文になるし、そうでない人の書いたものはやはりそうなってしまう。そしてできれば貴女には人間らしい顔をした論文を書いてもらいたいと僕は思います。人間らしい論文を書くためには、背景に人間らしい生活を送る必要があります。人間らしい生活というのは結婚して子どもをもつことだと僕は思います。貴女は女性だから大変かもしれないけれども、がんばりなさい。僕も出来るだけのことはするから」と。二十歳そこそこの娘がこういわれて、そのときもとても感激したが、加藤先生のその言葉の重さが本当に身に染みたのは、私が実際に子どもをもってからだったように思う。

(ジュリスト 2009年6月15日号(No.1380)より)

※加藤一郎(1922-2008)法学博士。東大紛争時の元東大総裁。


研究の面白さ

研究をはじめてみると、学生のときに面白いなと思っていたよりも大変なところがありました。やはりなにか新しいことを言おうと思ったら、過去の学説を完璧に調べなければならないのですね。その部分が結構大変で、最初は資料の海に溺れてしまいました。でも、それを過ぎて自分で考えていくときが、本当に面白いですね。ピアニストの友人にそんな話をしたら、「同じね!」と言われました。ピアニストも圧倒的に多くの時間を指のレッスンにかけ、残りのわずかのパーセンテージでこの曲想をどう表現しようかを考えるのだそうで、そのときがものすごく面白いというんですね。どう理解してどう組み立てて、どのように自分が主張するのか、それを模索するときが醍醐味です。私の専門の民法学の面白さについては、大学のウェブマガジンのインタビュー(:http://www.tohoku.ac.jp/japanese/webmagazine/interview/interview-15-01-mizuno.html)に述べてありますので、ご覧いただければと思います。

あれこれ考えてそれを書いて形にしていくことは、すごく楽しいものです。ものを考えるということは楽しいですよね。おぼつかないながらもそれを表現して、そしてその表現したものを尊敬する先達が認めてくれるというご褒美があったりすると、もうとても嬉しい。それで、あとは生きていけるだけの給料がもらえれば、それ以上のものは欲しいとは思いません。学者業というのは、結構な商売だと思います。もっとも最近は行政仕事が多くなって、勉強をする時間がなくなって辛いのですが。

研究職として文化系の学問が女性に向いていたように思うのは、一人で読んで、一人で考えて、一人で書いていく、という自分一人の孤独な作業である点です。理科系の実験系は集団作業で、成果も複数の名前になります。法律学だと、私の名前で書いたものは、それは完全に私一人で作ったものです。そしてかりに女性差別があっても、私の書くものについては誰も邪魔できません。それが紀子という女名前で書いてあるからということで差別することができない。同業者が読めば論文の善し悪しは明瞭です。活字媒体も多くありますし、いいものを書けば必ず発表できます。集団でする仕事でしたら、いい仕事が与えられないとか、意地悪されるとかがあったかもしれませんが。

男女雇用機会均等法以前の世代でしたし、東大法学部時代に14人いた私の女性同窓生たちも、職についても全員が仕事を続けてこられたわけではありません。ちなみに、同窓生のうちで一番有名人は福島瑞穂さん(消費者行政・食品の安全・少子化・男女共同参画担当大臣)でしょうか。役人になった同窓生は、割に続きます。組織集団でする仕事は女性にはいきにくいことがあるかもしれませんが、役人になったら割合続くのは、男と女という差よりも公務員試験に受かっているという中央官庁のカテゴリーの方が強いのでしょうね。およそワーク・ライフ・バランスのとれない激務ではありますが。民間会社に入社した同窓生にきくと、オン・ザ・ジョブ・トレーニングの段階で、男性社員と差別されて挫折したようです。公務員、法曹資格を取って法曹界に進む、あるいは私のように学者になった少数派は続きましたが、民間会社へ行った同窓生たちは皆、続かなかったですね。現在では、雇用機会均等法の影響も大きく、時代は変わってきていますけれど、私のジェネレーションはそんなふうでした。

子育てと仕事の両立

ドナイ(機構) :子育てをしながらの研究活動はご苦労も多かったのではないでしょうか?

水野紀子教授 :助手を終えた後、助教授時代に二人の子どもを産みました。子どもたちが保育園に通っていた頃は、別居結婚していまして、母子家庭で、土日になると夫がやってきてウィークエンド・ファーザーをしていました。実家は遠隔地の東京なので日常的に祖父母の協力を得ることもできず、相当に大変でしたが、保育園仲間に助けてもらいました。例えば、教授会が延びて保育園のお迎え時間に間に合わなくなると、子どもの同級生の親の職場に電話をかけて、子どもを頼むのです。一緒に自宅に連れて帰ってご飯を食べさせてもらい、会議が終わってから迎えにいって、「ついでに食べていく?」なんていわれて私まで晩御飯をごちそうになって帰る、ということをします。私が同じことを頼まれることももちろんあるのですが、保育園の同級生は兄弟のようなものですから、お友達を連れて帰った方が一緒に遊んでいてくれて楽なくらいなのですね。保育園仲間は、お互いにぎりぎりの忙しい生活をしていますから、遠慮をする余裕はなく、助けてもらえるときは頼んでも良い、という相互関係が成立していて、自宅の中もわかり合っている育児戦争の戦友たちでした。原始共産制などと称しておりましたが、そんな仲間に支えられて乗り切りました。大変でしたが楽しい日々でしたし、それで見えてくるものもあります。勉強に注ぐ時間が減ったのは否定できませんが、世界が広がります。大学関係などの職業上の人間関係だけじゃなくて保育園での人間関係とか。下の子が卒園して20年近くなりますが、いまだに年一回、保育園仲間と同窓会をしております。子どもがいると物理的には大変ですが、精神的にはすごく楽になります。

ごく一部の人々を除くと、学者業で一番大変なのは、自己嫌悪との闘争なのではないでしょうか。中年になってしまったら自分の限界にあきらめもつきますし、またそれまで積み上げてきたもので自信も持ててまあ給料分くらいは存在が許されるかと思えますが。目と手の間には、乖離があるのですね。目、つまり自分が批評できる能力というのは、手、つまり自分の書ける能力より上なのです。その乖離に耐えて書き続ければちょっとずつ手もあがってきますが、自分の目でみたら必ず自分の手がだらしなくて自己嫌悪になります。その自己嫌悪との闘争がとくに若いうちは学者という仕事のきつい部分です。

東大法学部前には銀杏並木があって、学部学生時代から銀杏の木で季節の移り変わりを感じて生活していました。春になると芽吹いて、夏になると緑色に繁り、秋が来たら黄金色に燃えて、そして落ち葉を落とすというのを何年もみていて、銀杏の変化を見るたびに、「この1年私は何をしたかしら?何も出来なかった」と思って、時の流れと自己嫌悪が重なっていました。ところが最初の子を妊娠したとたんに、「この葉が落ちる頃には生まれてくる」、「今度新芽が出る頃には何カ月になっている」と嬉しく眺めるようになりました。それまで寒色系だった時の流れが暖色系に変わるような気がしました。娘の成長で時の流れを感じ取るようになって、生きることがすごく楽になったのです。今年度は、法学部の女性准教授4人が産休をとるというおめでた続きでした。彼女たちもしばらくは物理的には大変でしょうが、トータル楽に生きられるようになるだろう、本当におめでたいなと嬉しく思っています。

ドナイ(機構) :大変なときに仕事を辞めたいと思ったときがありましたか。

水野紀子教授 :それは一度もありませんでしたね。むしろ、子どもができた時に「仕事を持っていて本当によかった」と思いました。仕事柄、児童虐待の問題も扱っていますから、母性愛が一般化できないということも分かっていますが、どうも私はとても母性的な人間らしくて、わが子のかわいらしさは、それは圧倒的でした。こんなにすさまじく愛しい存在がいると、仕事がないと100%エネルギーを注いでしまって、私はきっと子どもにとって重すぎる母親になるだろうと思ったのです。成人した子どもたちもそれは認めてくれていて、「母が専業主婦だったらと考えるとぞっとする」と称しております(笑)。保育園時代は、毎日研究室に通う規則正しい生活で、夕方、保育園に迎えに行ってから朝、送り込むまでは、子どもとべったりの生活でしたが、仕事モードとの切り替えがついて、めりはりの効いた悪くない生活形態でした。

子どもをもったことが学者業の障害になったとすれば、留学をあきらめたことだったでしょうか。私の場合、若い時に保育園を離れられなかったために行けませんでした。小さい子を連れて行ったら勉強どころではなくなるだろうと思いましたし、帰国してから保育園に再入園できる保障もありませんでしたから、保育園を離れないことを選択したのです。留学できなかったことは学者としてのキャリアのためにはハンディキャップだったかもしれません。民法学者は若い時に留学することがとても大事なのです。日本の民法はドイツ法とフランス法をみならって出来ているから、ドイツやフランスに留学して、あるいは人によってはアメリカに留学して、その国の言葉を日本語を読むように楽に読めるようになって、それから講義を聞いて、2年いれば大体その専門の話ができるようになりますね。そうすると先生に質問をして答えてもらうというコミュニケーションもできるようになります。それはやはり若いときに鍛えないとだめなのですね。今年の法学部の産休組には、出産前に留学を済ませている同僚もいて、賢明なことだと思います。でもまあフランスの文献は読めますし、若いうちの留学経験がなくてもなんとか仕事はできておりますから、それほど残念に思っているわけでもありません。ともあれ振り返ってみると、仕事をしてきたことは、育児にも、とてもよかったと思います。

大学の教育

法学部で教えるという仕事も、私は楽しんできました。大学教育が、高校までの勉強と違っているのは、正解のないところです。そこが、受験勉強とは全然違いますね。受験勉強は正解があってそれを覚えるという世界ですが。それは文化系だけで理科系には正解があるのかと思っていたのですが、理科系の先生方にうかがったら、「理科系も同じですよ」と言われました。理科系でも、最先端は何が正解か分からない、最先端の手前なら正解はあるけど、本当の最先端は正解が分からないそうです。法律学も何が正解かは分かりません。それでも、正解を目指して努力するその仕方に、学者の個性や成果が現れるように思います。

藤田先生(最高裁判所判事)※の「法学教育における「先端」と「伝統」、「応用」と「基礎」」(http://www.law.tohoku.ac.jp/~fujita/nagoya.html)という論文は、法学の優れた教育論だと思います。そこに「大学教育(あるいは少なくとも法学部教育)において最も重要なことは、教師の学問的世界を垣間見ることによって学生が感銘ないし感動を受ける可能性を、与えることである。どのようにすれば最も上手く自己の学問的世界を彼等に垣間見させることができるかを考えるのは、当の教師の責任であり、また権利でもある。そこにマニュアルはあり得ないし、況んやこの問題を制度的に解決する手立ては、本質的に言って、存在しない。」とあります。私もこれにとても共感します。講義でも、もちろん「いろは」が分かるように教えると同時に最先端の一番面白いことを教えたいと思います。教えることによって自分も勉強するし、変化して成長していくように思えます。

※藤田宙靖-法学博士。東北大学名誉教授



国の審議会での男女比率

ドナイ(機構) :先生はたくさんの審議会の委員もなさっており、大変お忙しいと思いますが。

水野紀子教授 :国の審議会に出席するために、毎週、何度も新幹線で上京しております。法律学は社会の役に立ってはじめて意味がある実践的な学問ですから、審議会もいわば広義の本業のうちなのでしょうけれど、いささかオーバーワークになっています。審議会の女性比率のせいで強い要請があってなかなか断りにくくて。平成32年までに国の審議会等における女性委員の登用の比率を10分の4未満とならないような状態にしなくてはならないとされています。女性委員の候補者を見つけるのが大変で、今の段階では30%を目標にして国の審議会を作っていますが、30%というのもとても難しいようなのです。若い准教授の世代が委員になるようになれば、ずいぶん違ってくるでしょうけれど。東北大学法学部は、准教授の層では女性の比率が男性に拮抗するほどですから。でも教授の数は少ないので・・。

考えてみれば自然なことなのです。私が学生のときに法学部の男女比は50対1だったのですから。それがそのまま年をとって、審議会委員に適当な年齢になったとすれば、2%のはずですね。それをむりやり30%にするので女性が足りないのです。どこの審議会でも、同じような顔ぶれの女性学者たちによく会います。2、3年前に霞が関のある会議で、50人ほどいる会議室の中で、珍しく紅一点でした。新司法試験の私法系の作題委員たちの会議でした。司法試験の作題委員は女性比率の制約はかからず、専門的な能力だけで決めますのでそうなったのですが、自然にすれば、学生時代の50対1になるのですね。

政策決定の場に女性の参加割合を保障することには意味があると思いますから、審議会の女性比率のしばりには賛成なのですが、個人的にはいささか困っています。まあこれも過渡的な時代の問題で、20年もすれば、それこそ自然に女性比率が増えてこんな困難はなくなるのでしょうけれど。

若い時代に鍛える

ドナイ(機構) :研究者を希望する学生に一言お願いします。

水野紀子教授 :すでにお話ししたように、私は研究職に就けて幸せだったと思っています。研究そのものは自分一人でやる仕事なので、そのことは自己嫌悪と表裏一体なのですが、とてもやりがいがありました。考えることが好きな人、それから未知のものに対する好奇心がある人にはとても向く仕事だと思います。孤独な作業とは言っても、活字では多くの同業者とつながっていて、優れた論文を読む感動もあります。

学生の書くレポートと本業の学者の論文とには、厳然とした差があります。学者の論文でも、ほとんどは過去の先人の蓄積の上に、自分のものをわずかに付け加えるにすぎません。ただしその過去の蓄積を紹介する部分は、けっして切り貼りではないのです。学生の書くレポートは、とかく切り貼りですけれども。論文では、過去の蓄積を紹介するときも、自分の新たに付け加えた視点に従って過去を咀嚼して、並べて見せて料理をしなければならないのですが、それが学生にはなかなか難しいようです。

それともう一つ若い方に申し上げたいのは、彫刻に例えると鑿(のみ)と鉋(かんな)が使えないとだめだということです。出来上がった論文、つまり彫像には、個性の差もあるでしょうし、典型から離れた、さまざまなものができてもかまいません。好みの違いもあって、評価が分かれることもあるでしょう。でも、鑿と鉋を使わないと彫刻はできません。鑿や鉋の使い方というのは私の領域で言うとたとえば外国語を読むことです。読めないとだめですね。この日本の条文を辿っていくとフランス民法からきているということになると、少なくともその条文の意味を知るためには、どういうルーツでどのような機能を持ち、その条文をめぐってどのような議論があったのかということを、フランス語で読めないとだめなのです。その鑿と鉋の使い方というのはある程度若い時に訓練しないといけないところがあります。もちろんフランス語ができれば民法学者になれるわけではなく、日本の民法学の蓄積を身に付けていて、とくに問題意識を持っていなくてはいけませんが。鑿と鉋の使い方を訓練して身につけるにはちょっと臨界期みたいなものがあって、もちろん例外はありますが、できれば30代の前半までにがんばって身につける必要があるように思います。そういう基本的な技術を身につけたら、あとは好きなように彫刻すればいいので、創造の喜びと苦しみを、しっかり楽しんでいただければと願います。

ドナイ(機構) :本日はどうもありがとうございました。

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