ブックタイトルクロスオーバー No.30

ページ
7/8

このページは クロスオーバー No.30 の電子ブックに掲載されている7ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

クロスオーバー No.30

学際高等研究教育院/学際科学フロンティア研究所東北大学クロスオーバーNo.30コラム井原創造的なアイディアの源泉(6)聰学際高等研究教育院シニアメンター元国際高等研究教育院長東北大学名誉教授ガリレオと望遠鏡観測ガリレオが望遠鏡を天に向けたらたちまち新しい事実が鏡のように映し出された、という類の勘違いをする人が多くいます。なかには木星に望遠鏡を向けたらそこには木星を中心に回転する4つの衛星を発見し、太陽を中心に回る惑星の雛形を見出したとまでいわれることがあります。前回お話したようにガリレイの望遠鏡では木星の惑星を見出すのは大変なことでした。近傍にある暗い別の天体と区別し、木星の周りを回転していることを確認するためには、仮にも完成したとは言い切れない望遠鏡で、衛星の位置変化や衛星の明るさの変化をとらえ、毎夜、毎夜、数ヶ月にわたって根気強く追い続けなければなりませんでしたし、太陽黒点の観測の場合には、太陽の近傍に漂う黒雲であることを否定し、太陽の自転の証拠として克明なスケッチが求められました。私は彼の太陽黒点のスケッチ一枚一枚を複写して、早回し動画のように可視化したことがありますが、黒点が太陽表面上を回転する様子を見て取ることができました。天上界の月は磨かれた鏡のような球体で山や谷などとんでもないとする攻撃に、凹凸があるからこそ、月は太陽の光を乱反射して球体であることを鮮明にしていると反論しました。望遠鏡という生まれたての観測機器を受け入れない人々との闘いに加え、宗教上の攻撃も激しく、愛弟子であったウラルミーノ枢機卿によって裁かれ、刑は言いわたさざりしものだったはずが、有罪となり幽閉されてしまいました。「それでも地球は動く」といったか否かの真偽はともかく、「それでも○○細胞はあります」という言明とどのくらいの隔たりがあったのだろうかと考え込むことがあります。ケプラーの夢(ソムニュウム)「五万ドイツマイルかなたの空中に,レヴァニアの島がぽっかり浮かんでいる(54).ここからそこへの道,あるいはそこからこの地上への道はめったに開くことがない(55).だが道が通じた時には,われわれ精霊の仲間であればいともたやすく行き来ができる(56).ところが人間どもを運ぶとなるとこれは大仕事だ.生命の危険をはらむといっていい(57).だがどうしても道連れにというのなら,まず無気力な人間とか,デブとか,めめしい奴ははじめからお断りだ(58).反対に,いつも馬術の訓練に余念なく,航海するなら遠くインド諸島にまで出かけるといったぐあいに体を鍛え,しかも堅パンやらニンニクやら干魚などうまくもない食物で命をつなぐのを常にしたたくましい面々を選ぶのだ(59).とりわけ,若いころから雄山羊や二股の枝にまたがり,ボロボロの外套をひるがえして広い世界を夜な夜な飛び回って過ごしたようなひからびた老婆を好んで選ぶのだ(60).ドイツ人はどいつもこいつもいただけない.しかしスペインの頑丈な連中ならまず合格だ(61)」(『ケプラーの夢』講談社学術文庫,渡辺,榎本訳)奇妙な書き出しですが、本文の数倍もある注釈を付せられたこの文章はヨハネス・ケプラーがチュービンゲン大学の卒業の1593年に書いた論文の一節です。レヴァニアの島とは月です。精霊の力を借りて月へ旅行する物語です。ジョン・ミルトンの『失楽園』、後にはジュール・ヴェルヌ、H.G.ウェルズらにも影響を与えた空想科学小説のはしりとなったものです。人間は自分がいる世界を中心に考えるので、地球は動かないものと考えているが、それでは月に降り立って宇宙を見てみようという、宇宙の中心に月があり、他の天体が動く宇宙を見るに違いないというのです。ミュラー教授には取り上げてもらえず、天文学者としての地位を築き、いわゆる地動説に確信をもつ1609年ころに膨大な付記や注釈をつけはじめ、出版を試みようとし、はたせずに1630年に他界しますが、1634年遺族によって出版が果たされます。出版以前に書き写されて流布し、登場する精霊がケプラーの母だとしてケプラーを良く思っていなかった者から魔女として訴えられ、皇帝付き天文学官のケプラーさえ母親を救出することは困難で、とらわれの日々に受けた拷問で母親は病死してしまいます。月には山や谷がありなどと書くときには、そこには注釈が付けられ、ガリレイの望遠鏡観測の以前に書いたものだと主張もしています。学問の思索の場ガリレオが学問の思索を深めたところといえば、生産の槌音が響くアルセナール(ヴェネチアの造船場)であったことはよく知られています。計算尺の考案、製作・販売、望遠鏡の製作販売で生活費を稼いだガリレオ、ケプラーもワイン醸造場の樽の体積を求める方法や計算機の考案などどれも天文学とかけ離れた活動を展開してもいました。お互いの天文学上の意義をどう理解しあっていたかは分かりませんが、手紙を交換しあった痕跡が残されています。哲学者デカルトはガリレオ裁判の行方を気にしつつ『方法序説』(1637年)を出版したし、ジョン・ミルトンは幽閉されたガリレオを救出する運動をヨーロッパ世界に投げかけてもいました。創造的なアイディアの源泉について答えを見出すことは難しいですが、ここで取り上げた科学史の峯に相当する人たちの知的思索の場は現実に根ざした諸活動に依拠し、かつ極めて広い視野をもっていたことが見て取れます。奇を衒(てら)うレベルの知的好奇心ではなく、現実社会と渡り合う根源的な思索が求められているのではないでしょうか。(終)ガリレオ・ガリレイ07