ブックタイトルクロスオーバー No.27

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概要

クロスオーバー No.27

05国際高等研究教育院/学際科学フロンティア研究所 東北大学クロスオーバー No.27同時代人、ダ・ヴィンチ、コロンブス(コロン)そしてコペルニクスダ・ヴィンチ(1452-1519)、コロン(1451 頃-1506)そしてコペルニクス(1473-1543)の三人はほぼ同時代人です。前の二人は全く重なっていると言って良いし、遅れて生まれてきたコペルニクスもコロンが大西洋を横断し帰還したとき(1493)には二十歳に達していました。前回も触れましたがこのニュースは瞬く間にヨーロッパ世界を駆けめぐったことが知られています。アポロ11 号が月面着陸を果たしたとき、世界中が湧き上がりました。哲学者が偉大なる人類の一歩を讃えたかと思うと、多くの科学者が科学の万能を語り、未来学まで登場したことがありました。似たような興奮が「大航海時代」に起こったかもしれません。前回、ダ・ヴィンチの交通機関体系の創造に触れたのも、船舶活用の可能性から水上交通を基軸にしつつも、陸上、空中へのデザインを展開したモーティブフォースが大航海にあったのではないかと推測したからです。コロンは「私は今迄、世界は、大地も海も含めて1 つの球形であると、書物で読んで参りましたし、またこのことは、トロメオ(プトレマイオス)やその他の学者も…のべているところであります。私は、この世界は今迄書かれているような円形ではなく…」(『航海の記録』大航海時代叢書Ⅰ、林屋永吉他訳、岩波書店、1965年、168 頁)といい、マガリャンイスは「南極には北極のような星座はない。たくさんの小さな星がかたまって2 つの星雲(注:いわゆるマゼラン星雲)を形づくっている」(同書、525 頁)と述べていました。彼らの航海日誌には異文化との接触による衝撃だけではなく、アリストテレスやプトレマイオスの狭い地球観・宇宙観をゆるがす驚くほど新鮮な事実が生き生きと描写されていました。教会暦、航海暦とコペルニクス私が非常勤講師や原稿を書いて生活していた駆け出しの研究者時代に、コペルニクス生誕500年祭が世界中で行われました。その時、コペルニクスの主著『トルニの人ニコライ・コペルニキの天球の回転について 六巻』(Nicolai CoperniciTorunensi De Revolutionibus orbium coelestium,Libri Ⅳ, 1543.3.)のマニュスクリプトが復刻されました。貧乏生活者には高価な本でしたがインクの染みまで見事に再現されたそれを清水の舞台から飛び降りる思いで買ったことを今でも昨日のことのように思い出します。その冒頭に有名な「ラテランの宗教会議で改暦問題が話題になった」こと、「1年の長さと1月の長さと太陽および月の運動が不十分にしか知られていなかった」ことや「そのときからこのかた私は…この問題をもっと正確な方法で研究しようと思った」ことが綴られています。大航海のナビを可能にしたプトレマイオス理論をもとにした「天体推算暦」(エフェメリーデスEphemerides ab anno 1475 ab annum, 1506) を使いこなすためには煩雑な計算を必要としていました。また、宗教会議でも語られていたこれまたプトレマイオス理論にもとづく教会暦はこの時代実際の天文現象と10 日も狂いが生じていました。もっとも、古代ローマのプトレマイオスの理論でこうした暦ができたわけではありません。天文学者・数学者のミュラーが30 年間分の暦を作り、計算法を確立したものです。グローバルな地球と宇宙の存在の様式とその運動の形態に対する認識が一挙にヨーロッパで前進しアリストテレスやプトレマイオスの権威が事実の前に大きく揺らいでいる時代でした。いうまでもなく、天文学的認識とは元来、全地球的規模から天体を統一的にとらえることです。天体というマクロな運動物体は地球の全領域から観測されるべきもので、地球それ自体の認識が進んだことが、対象たる天体を科学的認識の光の前にさらけ出す役割を担ったといえます。天文台からの「小さな観測」だけが天文学のすべてではなく、天文学史の狭いワクからだけでは引き出せないことといえます。しかし、科学史では未だに「コペルニクス的展開」として、「ひらめき」や「パラダイムの転換」と解釈されています。チュートン騎士団と貨幣論とコペルニクスポーランドは北欧ルネサンスの地としても知られ、多くの学者、文人が集まってくるところでもありました。永らくチュートン騎士団の侵入を受けるとともに、悪貨をばらまかれ、コペルニクスはヴァルミア教壇の責任者、バルト海のほとりフロンボルグの城主、ポーランドの為政者の一人として身を挺して果敢にチュートン騎士団と闘ったことでも知られます。ポーランドの貨幣経済成立初期に『貨幣論』(MonetaeCudendae Rtio, 1526)を著し、プロシア貨幣とポーランド貨幣の統一を提起し、単一通貨制度としてジグムント貨幣(ジグムント1世の名から)を提言し、イギリスのグレシャム卿より30数年早く「悪貨は良貨を駆逐する」を定式化してもいます。今では天文学者としてしか知られていませんが、ポーランドではこの点の評価も少なくありません。ところで、先に触れた『天球の回転について』では212 頁中106 頁実に50% が天文観測と計算による数値表で埋め尽くされています。天文学史家のツィンナー教授はかつて1497 年から1541年迄の45 年間にコペルニクスが行った天文観測を58 回と査定していて、年一回強は少ないとする見方もありましたが、政務に追われかつ霧深いバルト海を望む居城からの観測は、通常特別の天文現象が起きるときにのみ観測した時代としては、そこそこの回数と考えることも出来ます。今となっては、ねばり強い天文学への関心と為政者としての活動がどのように絡み合っていたのかは推測する以外にありません。(つづく)井原  聰国際高等研究教育院シニアメンター元国際高等研究教育院長東北大学名誉教授創造的なアイディアの源泉 (3)コラム